(本記事は、守屋洋氏の著書『ピンチこそチャンス 「菜根譚」に学ぶ心を軽くする知恵』小学館の中から一部を抜粋・編集しています)

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過ぎれば美点も欠点になる


 倹約は美徳だが、度が過ぎれば、ケチとなり卑(いや)しさとなって、かえって正しい道に反するようになる。
 謙譲は立派な態度だが、これも度が過ぎれば、卑屈となりバカ丁寧となって、何か魂胆を隠していることが多い。

倹(けん)は美徳(びとく)なり。過(す)ぐれば則(すなわ)ち慳吝(けんりん)となり、鄙嗇(ひしょく)となって、反(かえ)って雅道(がどう)を傷(やぶ)る。譲(じょう)は懿行(いこう)なり。過ぐれば則ち足恭(すうきょう)となり、曲謹(きょくきん)となって、多(おお)くは機心(きしん)に出(い)づ。(前集二〇一)

  •  ムダ使いをしないこと。
  • 懿行 立派な行ない。
  • 足恭 度が過ぎたうやうやしさ。
  • 曲謹 どうでもいいようなことまで念入りにすること。
  • 機心 企みをめぐらす心。

倹美徳也。過則為慳吝、為鄙嗇、反傷雅道。譲懿行也。過則為足恭、為曲謹、多出機心。

現役を退きますと、収入も限られていきますから、おのずからムダを省いて、生活を切りつめていかざるをえません。

しかし、なかには十分に余裕のある人もいるでしょう。このアドバイスはそういう人たちに向かって語りかけているのです。

私はお金を儲(もう)けることにはまったく疎いのですが、よくこんなことばを見たり聞いたりしてきました。

「お金というのは、儲けるのはまだやさしい。使い方がむずかしいのだ」
「お金の使い方で、どの程度の人物なのかよくわかる」
「苦労してお金をためた人は、気前よく使えない」

いずれも一面の真理のように思われます。

では、倹約とケチはどう違うのでしょうか。倹約とはムダ使いをしないということです。ふだんは切りつめていますが、使うべきときには使います。

これに対し、ケチとは使うべきところでケチケチ出し惜しむということでしょう。

余計なお節介かもしれませんが、持てる人はなるべく意味のある使い方をしてほしいなあと思います。

もう一つ、後段の「譲(謙譲)」ですが、この場合、へりくだるという意味です。ここでは目上の人に仕える心得として語られています。これも度が過ぎると卑屈になるというのです。

これで思い出すのはまた孔子(こうし)です。この人は五十歳を過ぎてから、ようやく認められて魯(ろ)の国の要職に登用されています。そのさい、君主に対する仕え方は、態度といい物言いといい、きわめて丁重であったようです。

その孔子もやはり批判を免れませんでした。こういって嘆いています。

「君(きみ)に仕(つか)えて礼(れい)を尽(つ)くせば、人以(も)って諂(へつら)うとなす」(『論語(ろんご)』八佾(はちいつ)篇)

礼に則(のっと)って主君に仕えると、人はそれを卑屈に過ぎるという。

上の者に仕える場合、それなりのケジメをつけなければなりません。それが孔子の言っている「礼」です。ところがそれをまわりから見ていると、相手に迎合して、ご機嫌取りをしているように見えるというのです。

これは現代の組織でも同じでしょう。上司にどういう態度で接するかは、なかなか面倒なところです。

あまりペコペコしすぎれば、それこそへつらい者と眉をひそめられるでしょうし、なれなれしすぎても、よそよそしすぎても礼を失します。

できるだけ「筋を通しながら謙虚に」というのが理想の対応といえるでしょう。

定年後は、そうした煩(わずら)わしさからも解放されますが、誰に対しても謙虚さだけは失わないようにしたいものです。

世間の思惑がどうあろうと動じない


 わが身を、いつもあくせくする必要のない状態に置いておけば、世間の思惑がどうあろうと、いささかも動揺させられることはない。
 わが心を、いつも静かな境地に落ち着かせておけば、世間の評価がどうあろうと、それによって少しもかき乱されることはない。

此(こ)の身(み)、常(つね)に閒処(かんしょ)に放在(ほうざい)せば、栄辱得失(えいじょくとくしつ)も、誰(たれ)か能(よ)く我を差遣(さけん)せん。此の心、常に静中(せいちゅう)に安在(あんざい)せば、是非利害(ぜひりがい)も、誰(たれ)か能く我を瞞昧(まんまい)せん。(後集四二)

  • 差遣 かり出すこと。
  • 瞞昧 目をくらますこと。

此身常放在閒処、栄辱得失、誰能差遣我。此心常安在静中、是非利害、誰能瞞昧我。

静かな環境、静かな境地で自分と向かい合う――。せめて人生の後半だけでもこんなふうに過ごしたいものですね。

いうまでもありませんが、そのためにはある程度の蓄えを必要とします。そうでないと、安心して生きていくことはできません。

『孟子(もうし)』もこう語っています。

「恒産(こうさん)なくして恒心(こうしん)あるは、ただ士(し)のみ能(よ)くすとなす。民(たみ)の若(ごと)きは、則(すなわ)ち恒産なければ因(よ)って恒心なし」(梁恵王(りょうけいおう)篇)

かつかつの生活でも平然としていられるのは、ごく限られた人だけである。一般の人は、そんな生活をしていると、心の落ち着きまで失ってしまう。

「恒産」とは、生活していけるだけの安定した収入財産。また、「恒心」とは、いつも落ち着き払って動揺しない心を指しています。

恒産などなくても、恒心を持ち続けるのが理想です。だがそれはよほどできた人物でもむずかしいかもしれません。

だとすれば、ふだんからしっかりした生活設計を立て、家計にゆとりを生むように努めたいものです。ある程度のゆとりがあれば、いざというとき、心の動揺を最小限に抑えることができるでしょう。

では、現代を生きていくためには、どの程度の蓄えを必要とするのでしょうか。私はそちらの事情には疎いのですが、こんな経験をしたことがあります。

十年ほど前、妻が路で転んで骨折し、リハビリやら何やらで二か月ほど入院したことがあります。私はせっかくの機会だから、一人で生きていくのにどれくらいの費用がかかるのか、試してみようと思いました。やってみて出した結論は、一か月十万円もあればなんとか生きていくことができるな、ということです。

ところが、あとでそれを同年輩の知人の女性に語ってみたところ、

「だめ、だめ、だめよ」

と一蹴されました。

まともな社会生活を営んでいくには、とてもそれでは足りないというのです。

じつはこのとき私の念頭にあったのは、高村(たかむら)山荘でした。『智恵子抄(ちえこしょう)』で有名な高村光太郎(こうたろう)という詩人が、戦後の一時期、自分を見つめなおすために岩手県花巻(はなまき)市の郊外に隠棲(いんせい)したのですが、そのとき住んだのが高村山荘です。今でも保存されているようですが、私もだいぶ前、一度行ってみたことがあります。山荘とはいっても、小屋としかいいようのないような、ほんとうに見すぼらしい住まいでした。

「ああ、高村さんはこんなところで自分の人生と向き合っていたのか」

と、いささかショックを受けました。

たしかにあの山荘のような住まいでは、まともな社会生活は営めないかもしれません。だが、私のなかでは今でも高村山荘へのこだわりを捨てきれないでいます。

生活のレベルをどの程度に維持するかは人それぞれですが、われら凡人にとっては、『孟子』の語っているように、生活の安定なくして心の安定も得られません。

後半生に向けては、そのあたりも念頭に置いて生活設計を立てていきたいものです。

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(画像=Rawpixel.com/Shutterstock.com)

運命に逆らわない


 仏家(ぶっか)のいう「縁にまかせる」こと、儒家(じゅか)のいう「地位に安んずる」こと、この二つは、人生の海を渡るうえで欠かすことのできない浮き袋である。
 人生の海は広々として果てしがない。満足を得ようとすれば、かえってさまざまな欲望が吹き出てくる。いま置かれている境遇に安んじていれば、この先、どんな情況に置かれようと、必ずや安心立命の境地を見出すことができよう。

釈氏(しゃくし)の隨縁(ずいえん)、吾(わ)が儒(じゅ)の素位(そい)、四字(よじ)はこれ海(うみ)を渡(わた)るの浮囊(ふのう)なり。蓋(けだ)し世路茫々(せろぼうぼう)として、一念(いちねん)全(まった)きを求(もと)むれば、則(すなわ)ち万緒紛起(ばんしょふんき)す。寓(ぐう)に随(したが)いて安(やす)んぜば、則ち入(い)るとして得(え)ざるはなし。(後集一三五)

釈氏隨縁、吾儒素位、四字是渡海的浮嚢。蓋世路茫茫、一念求全、則万緒紛起。随寓而安、則無入不得矣。

『墨子(ぼくし)』という古典にも、こんなことばがあります。

「安居(あんきょ)なきに非(あら)ざるなり、我に安心(あんしん)なきなり。足財(そくざい)なきに非ざるなり、我に足心(そくしん)なきなり」(親士篇)

安心して住める家がないわけではない。安んじる心がないのである。十分な財産がないわけではない。満足する心がないのである。

人間の欲望にはきりがありません。それに振り回されて、心まで落ち着きをなくしていくというのです。

では、どうすればよいのか。それに答えてくれているのが『老子(ろうし)』の次のことばです。

「甚(はなは)だ愛(あい)すれば必(かなら)ず大(おお)いに費(つい)え、多(おお)く蔵(ぞう)すれば必ず厚(あつ)く亡(うしな)う。故(ゆえ)に、足(た)るを知(し)れば辱(はずかし)められず、止(とど)まるを知(し)れば殆(あや)うからず、以(も)って長久(ちょうきゅう)なるべし」(第四十四章)

地位に執着しすぎると、必ず生命をすり減らす。財産を蓄えすぎると、必ずごっそり失ってしまう。足ることを心得ていれば、辱めを受けない。止まることを心得ていれば、危険はない。いつまでも安らかに暮らすことができる。

足ること、止まること、この二つのことをよく心得てかかれというのです。これを「止足(しそく)の戒(いまし)め」といって、老子哲学の核心だとされてきました。

歴史上これを実践した人も少なくありません。たとえば後漢(ごかん)時代の疎広(そこう)という人物です。

朝廷の高官に昇ったあと、早めに郷里に隠棲し、惜しげもなく財を散じて酒席を設け、友人知人とともに人生を楽しんだといわれます。

見かねた友人が、

「これでは子孫が無一文になってしまいますぞ。少しは田地でも買っておいてやったらどうですか」

と忠告したところ、疎広は、

「いや、いや、子孫になまじ財産など残してやるのは、怠惰を教えるようなもの。賢にして財多ければその志を損(そこな)い、愚にして財多ければその過ちを益(ま)す、といわれます。それでなくても、富める者は人の怨みを買いやすい。私は子孫が過ちをかさねたり怨みを買ったりすることを願わないのだ」

といって、余分な財産などいっさい残そうとしなかったといわれます。

疎広は天寿を全うして世を去りましたが、人々はそんな彼の生き方を「止足の計を行ない、辱殆(じょくたい)の累(わずら)いを免(まぬが)る」と評したといわれます。足ること、止まることをよく心得た人物で、人から辱めを受けることもなかったし、身を危険にさらすこともなかったというのです。

あやかりたいものですね。

内面が充ち足りていれば人生は楽しい


 精神が充実しているときは、粗末な布団にくるまっていても、天地の生気を吸収することができる。
 心が充足しているときは、質素な食事を取っていても、人生の淡泊な味わいを楽しむことができる。

神酣(しんたけなわ)なれば、布被(ふひ)の窩中(かちゅう)にも、天地(てんち)の冲和(ちゅうわ)の気(き)を得(う)。味(あじ)わい足(た)れば、藜羹(れいこう)の飯後(はんご)にも、人生澹泊(じんせいたんぱく)の真(しん)を識(し)る。(後集八八)

  • 布被の窩中 粗末な布団しかない家のなか。
  • 冲和の気 調和の取れた生気。
  • 藜羹 あかざのスープ。粗末な食事にたとえる。

神酣、布被窩中、得天地冲和之気。味足、藜羹飯後、識人生澹泊之真。

極端な貧乏も困りますが、あれもこれもと高望みしてもきりがありません。

食べていければいいやと居直ることができれば、気持ちもずいぶん楽になります。

足ることを知れば、心に余裕が生まれますし、ゆったりとした気持ちで人生を味わうことができるかもしれません。

ただ、老後の貧乏は注意が必要です。

定年後は収入が限られてきますから、ある程度の蓄えがないと、病気などの不測の事態が起こったとき、とたんに立ち行かなくなります。

貧乏を楽しめているうちはいいのですが、楽しむどころではない貧困に陥ってしまったときには、ためらわず、しかるべき救済を求めるべきでしょう。

ピンチこそチャンス
守屋 洋
著述家、中国文学者。1932年、宮城県生まれ。東京都立大学大学院中国文学修士課程修了。書籍の執筆や講演等を通して中国古典をわかりやすく解説。SBI大学院大学で経営者・リーダー向けに講義を続けている。著書多数。

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